これまでの連載では、制度の仕組みや実務的な対応について解説してきました。今回は少し視点を変えて、そもそもなぜこの法律が今、これほど急ピッチで整備されたのかという「背景」についてお話しします。
「昔はこんな制度なかったのに」「なぜ民間事業者まで巻き込むのか」と疑問に思う方もいらっしゃるかもしれません。 しかし、その背景にある「構造的な欠陥」と「痛ましい事件の歴史」を知れば、この制度が民間教育保育等事業者の皆さんに何を求めているのかが、より深く理解できるはずです。
この記事で分かること
- 制度導入の最大の理由である「性犯罪者のドリフト(漂流)」問題
- 民間事業者が規制の対象となった社会的背景
- 2020年から現在に至るまでの法整備のタイムライン
結論
この法律が作られた最大の理由は、縦割り行政の隙間を埋め、性犯罪歴のある人物がこどもと接する仕事に就くことを防ぐためです。
かつては、学校で処分を受けた教員が、その事実を隠して学習塾やスポーツクラブ、ベビーシッターとして再就職し、再びこどもに被害を与えるというケースが後を絶ちませんでした。 この「抜け穴」を塞ぐために、民間事業者も含めた包括的な確認制度(日本版DBS)が必要とされたのです。
構造的な問題点
長年、教育や保育の現場では、以下の3つの問題が指摘されていました。
これらが重なり合うことで、加害者が業界を渡り歩く「ドリフト(漂流)」という現象が起きていました。
縦割り行政の弊害
教員免許は文部科学省、保育士登録は厚生労働省(現在はこども家庭庁)と、所管する省庁がバラバラでした。そのため、資格や業界を横断して性犯罪歴を一元的に確認する仕組みが存在しませんでした。
民間事業の抜け穴
学校や認可保育所と違い、学習塾、スポーツクラブ、ベビーシッターなどは開業や雇用の規制が比較的緩やかです。 その結果、学校で懲戒免職になった元教員などが、過去を隠して民間の教育現場に再就職することが容易でした。これが「ドリフト」の温床となっていたのです。
再犯リスクと甘いチェック
小児性愛を含む性犯罪は再犯リスクが高いという特性があります。しかし、現場の人手不足や「まさかそんな人が来るはずがない」という性善説により、採用時のチェックが甘くなりがちでした。
契機となった状況と世論の高まり
こうした構造的問題に加え、統計データや連日の報道が法整備を強力に後押ししました。
高止まりする被害件数
令和4年(2022年)のデータでも、少年を被害者とする性犯罪の認知件数は2,700件を超え、児童ポルノ事犯の検挙件数も3,000件を超えるなど、こどもへの性被害は深刻な状況にありました。
民間現場での事件報道
特に法案議論が進んでいた2023年度には、学校以外の場所での事件が連日のように報道されました。 学習塾経営者が教え子を盗撮した事件、シッターのマッチングサイトを利用したわいせつ事件、放課後デイサービス職員による性的暴行などです。 これらを受け、国会審議等においても「個人のベビーシッターや家庭教師なども規制の対象に含めるべきだ」という議論が加速しました。
隠蔽体質への不信感
事件が起きても、示談で済ませて依願退職扱いにし、公にならずに加害者が次の職場へ移ってしまうという「隠蔽体質」への社会的批判も高まっていました。
政治の動きと法整備の変遷
こうした状況を受け、政府は段階的に包囲網を狭めてきました。
現在の日本版DBSは、一朝一夕にできたものではなく、数年がかりの議論の到達点です。
第1段階:検討の開始(2020年)
2020年12月、政府の計画に初めて「性犯罪歴がないことの証明」を求める仕組みの検討が明記されました。これが政治的なスタート地点です。
第2段階:公的資格への規制(2021年〜2022年)
まずは公的な資格から対応が始まりました。「教員性暴力等防止法」や「児童福祉法」の改正により、教員免許や保育士登録を失効した者のデータベースが整備されました。しかし、これだけでは学習塾やスポーツクラブなどの民間事業者は対象外であり、抜け穴が残ったままでした。
第3段階:包括的な法整備へ(2023年〜2024年)
2023年に「こども家庭庁」が発足し、こども政策を一本化する体制が整いました。そして2024年6月、ついに「こども性暴力防止法」が成立しました。これにより、学校だけでなく民間事業者も「認定」を受ければ犯歴確認が可能になり、社会全体でこどもを守る網をかける体制が法的に確立しました。
第4段階:実務への落とし込み(現在)
現在は、2026年の施行に向け、具体的にどの罪を対象とするか(痴漢や盗撮などの条例違反も含むのか)、どの職種を対象とするかといった詳細なガイドライン策定が進められています。
行政書士の視点
この制度の歴史を知っておくことは、現場での運用において大きな意味を持ちます。
例えば、従業員に制度導入を説明する際、「法律で決まったから従ってください」とだけ伝えるよりも、「かつては学校を追われた人物が塾に流れてくる問題があり、それを防ぐために業界全体で取り組む必要があるんです」と背景を伝えることで、納得感は大きく変わります。
日本版DBSは、単なる規制ではなく、こどもたちの安全を守れなかった過去の反省から生まれた、社会的な防波堤なのです。
よくある質問
Q. なぜ学校だけでなく、民間事業者も対象になったのですか?
A. 民間事業者が「抜け穴」になっていた実態があるからです。学校で働けなくなった人物が、規制の緩い民間教育事業者に再就職する「ドリフト現象」を防ぐためです。
Q. 痴漢や盗撮なども対象になるのはなぜですか?
A. 重大な性犯罪の前兆やリスクとみなされるためです。刑法犯だけでなく、条例違反(痴漢・盗撮など)も確認対象に含まれます。これらは再犯リスクや、より重大な性犯罪につながる恐れがあると議論された結果です。
次に取るべき行動
今回の記事で、制度の「Why」をご理解いただけたかと思います。
次は、この制度を自社に導入するために、法律が求めている4要件を確認しましょう。

本記事で解説した内容は、現行の「学校設置者等及び民間教育保育等事業者による児童対象性暴力等の防止等のための措置に関する法律」(法令)、およびこども家庭庁が公表している情報(2025年12月上旬時点)に基づき構成しています。
現時点で明確になっている骨格情報に基づき解説していますが、制度の詳細、具体的な申請手順、情報管理措置の細目、および雇用管理上の詳細な留意点等については、今後策定される予定の内閣府令等の下位法令やガイドライン、そして年明けから本格化する全国説明会などの周知資料において明確化されることになります。
最新かつ詳細な情報については、必ずこども家庭庁のウェブサイトや今後公表される正式なガイドライン等をご確認ください
